ビブリ・カル子の
「OH!!
ビブリカルDAY〜♪」
マタイ12章1節を読むと、私はルツ記を思います。
ルツは、ボアズの畑に入って穂をつみましたね。
あのルツ記は、士師記とサムエル記にはさまれた小さな宝石のように神のいつくしみを
描いています。
血なまぐさいところがないでしょう。
(士師記とサムエル記は戦いがいっぱい)
ルツ記は、聖書通読をしていると、ホッとする感がぬぐえません。あなたは?
ボアズの畑に、知らずに入るルツさん、
全て神の御手、
「落穂拾い」の聖画...
思い出して下さい。
7節には、『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』と記されています。
麦の穂をつむ、というところから旧約と新約を貫いている、神のあわれみ、“ゴエール”を
話していくことができます。
神の愛です。
おおいかくして下さる....
私は高校生のとき、習いました。
ここに多くのメッセージがあります。
「このことば、ゴエール、覚えとくんだよ。」
と私の先生は、何度も言っておられました。
66巻は、全部つながっているのです。
私たちは、神の愛の中にどっぷりとつからないと、考えが律法的になり、恐れが心を
支配しだします。
そして、ここに書かれているように、本末転倒の事を言ったり、思ったりするわけです。
(安息日問題のような...)
神の愛とあわれみは、もっと広く大きく深いものであります。
こうしなくては....というガンジガラメの思索ではなく、柔軟に従順にすすみたいものですね。
いつの時代でも真理の弾圧というものはあるのですが、主イエスに対する弾圧も福音書を
読むと多く書かれてありますね。
マタイ伝12章20節、21節、
『彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、
公義を勝利に導くまでは。異邦人は彼の名に望みをかける。』
ここは、実に深いみことばです。
私もやっと最近、霊にしみ込んで来ます。
子供の頃から、もう、何度読み、聞いてきたか、わからない程、親しんだつもりですが、
(わかったつもりだったんですが)
今、主イエスの愛の深さに、ただ、頭を下げるしかありません。
12章22節、
『その時、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。
イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。』
嬉しいですね!!これが福音です。
この為に働きましょう。
救いです!!
解放です!!
私たちも以前は、この人のような者だったのですよ。
実は本当のところ、何も見えない、口もきけない、そういう人間だったのです。
主イエスと出会って、見えて、ものが言えるようになったのです。
福音..神の力は、霊、肉、魂の分野に及ぶのです。
23節。
非常に興味深いことばがあります。
『この人は、ダビデの子なのだろうか。』
当時、おしの霊を追い出すことができる人は、メシヤだ、と言われていたのです。
(ユダヤ教において)
だから、みんなが驚いたわけです。
おしの霊を、主イエスが追い出されたからです。
しかし、心がねじれている人は、神の業を見ても、聞いても、喜ばないんです。
24節。
こんな風にはなりたくないですネ。
12章34節は、きびしいおことばです。
私たちは、まむしの末だ、ということです。
マタイ3:7、バプテスマのヨハネもまむしの末、ということばを言っています。
私たちの心にあるものが、
口語訳では、腹にあるものが、
口に出る、ということです。
心にあるもの....これがポイントなのです。
いやしいことを、口にしたくないですね。
心がいやしくならない様に祈り見張って行く必要があります。
聖霊に逆らう事なく、柔軟、従順な者でありたいです。
神に従い、真理のみたまに導かれ、自由な、喜びに輝いたクリスチャンとして、
今週も前進しましょう。
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<ゴエール>
〜マタイ12章〜