ビブリ・カル子の
「OH!! ビブリカルDAY〜♪」
今日は、15章を見ていきましょう。

パリサイ人や律法学者は、何とかして主イエスを、
ギャフン!と言わせたいのです。
主イエスは、彼らに対して、
6節、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまった、
と言われています。
人間のことばの中で生きて行くと、私たちは、神のことばを無にするのです。
気をつけなければいけません。
あなたは今どの
ことばの中で生きておられますか?

13節は、きびしいおことばです。
「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。」
このおことばは、
みことばのタネのところ、マタイ伝13章を思い出しますが、
根こぎにされる、13章よりもっときびしく書かれています。
いずれ、ニセ物か、本物か、わかるのです。
実をつけるのか、根こぎにされるか、はっきりとわかるのです。

ですから、主イエスは、
14節に、彼らのことは、放っておきなさい、と言われています。
放っておきましょ、放っておきましょ、委ねましょ、委ねましょ。

この15章には、カナン人の女性が出てきますね。
彼女は、娘がいる母親です。
22節には、「主よ。ダビデの子よ。
私をあわれんでください。」
25節には、「主よ。
私をお助けください。」
ということばを、主イエスにかけています。
27節をみると、「主よ。
そのとおりです。」と言ってます。
アーメンです、と言っているのです。
そして
ここからが、彼女の信仰です。

「ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」(15章27節)
この信仰のおことばを、主イエスは、ほめておられます。
母親だから、何とかして娘をいやして欲しい!と思って言ったのか。
この信仰をもつ母親だから言ったのか?!
あなたは、どう思いますか?

私は、この人の心、すなわち
信仰だ、と思います。
この人の信仰が言わせたことばです。
なぜなら、マタイ伝15章18節に、
口から出るものは、心から出てきます、と
書かれています。
私たちは、いくら心の中を隠してみても、それは現れます。
箴言には、『憎しみは、うまくごまかし隠せても、その悪は集会の中に現われる。』
(26:26)とも書かれています。

神の臨在の中で全ては明るみに出るのです。神は光ですから。

☆何とかして、いやしていただきたい!
☆何とかして、神のみ心を教えていただきたい!
とヤコブのように、
祝福して下さるまで離れません、という信仰が必要だ、と思います。

私は、そういう信仰が欲しいです。
神が語って下さるまで....。
みこころが示されるまで....。
祈りつづけて進みましょう。


                    戻る
<カナンの女性>
〜マタイ15章〜