ビブリ・カル子の
「OH!!
ビブリカルDAY〜♪」
☆23章の1節、注目してみましょう!
群集と弟子に主イエスが語っておられますね。
どこに行ったんでしょう!律法学者や、パリサイ人やサドカイ人たちは.....
22章では、あんなに、アレやコレや質問していたのにねェ.....
23章には、出て来ていませんヨ。
☆22章の46節
『それで、だれもイエスに一言も答えることができなかった。
また、その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問をする者はなかった。』
この続きが今日のビブリ・カル子エッセンス!!
さあ、23章の1節、2節!!
2節は、別の聖書訳によりますと、
『学者とパリサイ人は、モーセの権威の座にすわっている。』
と訳されています。
それで、主イエスが3節に、
彼らの言うことは、みな行いなさい。守りなさい。
けれども、彼らの行いをまねてはいけない、と言われてますねェ。
モーセのトーラーは、モーセの言っていることは、みな守らないといけないが、
それを言っている彼らの行動はマネをするな!ということですね。
※『彼らは言うことは言うが、実行しないからです。』と言われています。
私たちも自分自身をチェックしましょう。
聖書の教えを、上手にメッセージできても、自分がそれを行っているかどうか?
CSで子供たちには聖書を教えてあげられるけど、さて自分は、できているか?
ヤコブ書2:26によると、
『行いの無い信仰は、死んでいる』
と言われています。
Tコリント9:27には、
『私は、自分のからだを打ちたたいて従わせます。
それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、
自分自身が失格者になるようなことのないためです。』
とも、書かれています。
この箇所は、律法学者、パリサイ人に主イエスが言われているんだ!とばかり思わないで、
自分自身をチェックするおことばにもなりますョ。
牧師、伝道師、又神学生は、特に自分に対してキビシイ目をもつ必要があるのです.....
と私は思います。
自分を洗える眼とでも言いましょうか。
どれだけ、自分を客観視できるかどうかは、
その人の人間としての成長と実力のような気がします。
それは、自分の罪に対して直視し、
十字架の血のあがないを体験したとも言えるかも知れません。
主イエスは、23:26に、
『杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。』
と言われます。
内側がきよいと、外側にそのきよさがにじみ出るのでしょうね。そうなりたいですよネ。
栄光から栄光へと、主のみ姿に変えていただける私たちは、幸いですね。
お祈りしていきましょう。
マタイ伝23章は、
私の中高生会の学びの折、よく先生がここを引用され、
「先生」とよばれている自分に対して自戒の章だ、
とよく私たちに教えて下さった事が、今になって、
すごいキリスト者だなあ...と思います。
どこまで自分がキリストのことばで切られ、整えられ、練られたか、ということは、
その人のメッセージ、又、行いに出るのです。
神をおそれます。
隠しおおせるものは、何一つ無いのですもの。
主の前に、まっすぐ進みましょう。
今週も、主の前で喜びをもって、
“我が杯は、あふれます。”と
きよい主の御名をたたえて前進!!前進!!
<チェック・ユアセルフ!>
〜マタイ23章〜
Welcome!