細川ガラシャの足跡(全7回)
今から約400年前、
戦乱の日本で、イエス・キリストを熱心に愛し、
全幅の信頼をおいて主に従い通した1人のクリスチャン女性がいました。
A幸せな生活
細川玉(後のガラシャ)は、1563年、群雄が割拠する怒涛の戦国時代に、天下統一を目指す織田信長の重臣、明智光秀の三女として生まれ、16歳まで琵琶湖畔の坂本城(滋賀県大津市)で育ちました。フランシスコ・ザビエルらが長崎に上陸し、日本でのキリスト教布教を始めてわずか14年後のことでした。
ガラシャ(玉)は、「生まれつき非常に探究心に富み、また優れた才媛」(ルイス・フロイスの書簡)で、「容貌の美麗比類なく、精神活発、鋭敏、果敢、高尚で才知は卓越していた」(日本西教史)と言われています。高い教養を身につけ、極めて頭の切れる戦略家だった父光秀から受け継いだものも多かったかと思われます。
1578年、玉が16歳の時、父の主君織田信長の命令により、勝龍寺城(現在の京都府長岡京市)の城主細川藤孝の長男忠興(ただおき)に嫁いできました。この際に、幼い頃よりクリスチャンであった清原マリアが玉の侍女として奉公し、それ以来ずっと玉のもとで仕えました。その後父藤孝は新婚夫婦に新しい城を築いてやり、二人は「天の橋立」の見える宮津城(現在の京都府宮津市)に移り、玉は夫に愛され、2人の子供にも恵まれ、一国の武将の妻として幸せな生活を送っていました。
(文責)サムエル鳥谷部