細川ガラシャの足跡
(全7回)



今から約400年前、
戦乱の日本で、
イエス・キリストを熱心に愛し、
全幅の信頼をおいて主に従い通した
1人のクリスチャン女性がいました。

  B反逆者の娘

 しかし1582年、玉の人生を大きく変える事件が京都で起きたのでした。それが、「本能寺の変」といわれた有名な反逆事件です。玉の父明智光秀が、主君信長に反旗を翻し、これを攻め滅ぼしたのです。

 「信長死す。光秀謀叛。」全国の諸大名は騒然となりました。しかし、秀吉は、主君の仇を討つという名目で光秀討伐の軍を起こし、光秀は本能寺の変からわずか11日目に、土民の手によって殺されました。また、玉が育った坂本城(現在大津市)を守っていた玉の母や姉弟達も軍に包囲され城に火を放って自害しました。さらに、玉自身も一転「反逆者の娘」と呼ばれるようになりました。細川家は、早々に光秀を見捨て、優勢な秀吉側につきました。

 ヴァリアーノ師の「日本巡察記」にはこうあります。「日本人は、世界一誇り高い民族で、恥を最もきらい、自分や自分の家族に恥をかかせた場合は切腹という名誉の死を選ぶ。」玉は自害を思い立ちましたが、マリアは全身でこれを止めました。「尊い命をお与えになった神は、決して自害をお認めにはなりません。」

 玉の処遇に悩んだ細川家は、「表向き」は反逆者の娘と離婚したことにして秀吉への忠義をたて、実際には玉を味土野山中(現在の京都府弥栄町)に幽閉しました。


































































 














 (文責)サムエル鳥谷部


参考文献
 「細川ガラシャ〜炎の十字架〜」 さかいともみ著
 「細川ガラシャのすべて」 上総英郎編
玉が16歳の時、細川忠興のもとに嫁ぎ、丹後宮津に移るまで3年間を過ごした勝竜寺城跡。
京都長岡京市にある。現在勝竜寺城公園として開園。
玉が幸せな生活を送った宮津城跡。
京都府宮津市にある。
写真は、大手川の外濠の石垣。
城はこの橋の向こう側にあった。
<細川忠興とガラシャ>
今も残る宮津城の太鼓門
日本3景の一つ、天の橋立。
橋立の向こうに宮津城があった。
戻る