細川ガラシャの足跡(全7回)
今から約400年前、
戦乱の日本で、イエス・キリストを熱心に愛し、
全幅の信頼をおいて主に従い通した1人のクリスチャン女性がいました。
C内省の時
玉は、丹後半島の山奥、味土野(みどの)へ、まだ幼い二人の子供たちと別れ断腸の思いで、清原マリアを始めとする侍女たち、それに警護の家臣たちとともに向かいました。宮津から舟で日置に渡り、下世屋、上世屋、駒倉を経て味土野へ。谷また谷、山また山を越えてやっとたどり着く味土野は、1936年までその場所を確認できなかったほどの山奥でした。確かに、秀吉の手勢が追ってきても、そう簡単に見つけ出せるものではないと思われる陸の孤島のような場所です。今は、「ガラシャの里」としてその場所には、「細川忠興婦人隠棲地」の碑が建てられています。
四方を山で囲まれた、この山中での2年の隠棲生活を通し、乱世から隔離された玉の目には、今までの現実が、全てが無常で、永久に続くことの無い、空しい世の有為転変のすがたに映ったでしょう。戦国の世の物憂さをしみじみと味わい、また、父光秀の死を聞いた時の、夫忠興とその父藤孝の冷酷な変わり身を見て、人の心のうつろいやすさを思い知ったことだと思われます。地上の無常から、天上の永遠に思いが向けられていったのも不思議ではありません。地上の権力に心奪われた人間のたどる道を、父光秀の運命に見、敢えなく消えた信長政権の上に、見たでしょう。野望に燃える男たちの愚かさ、数々の戦いで命を散らすあさはかさを思い、一筋の変わらないものをいつしか玉は味土野の自然を通し追い求めていました。
“私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。”(伝道者の書4:4)
玉は自分の歩んだ20年を振り返る時を持ちました。
また、玉は侍女の清原マリアを通して、イエス様のことを聞きました。唯一ですべてのものの創造主である神の存在、同じ父の子供としてすべての人間は兄弟であり、その神の前では農民、大名、天下殿さえも同じ権利と義務を有している…..。それらの言葉は、玉の心の暗闇を照らす真の光となりました。
“人はみな草のようで、その栄えは、みな草のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。”(Tペテロ1:24〜25)
“この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありませ
ん。”(マルコ13:31)
また玉は、イエス様を堅く信じ、どんな状況にも慌てず、苦しみを淡々と受け止めるマリアの生き方に胸を打たれました。
「私もマリアのようになりたい」そう思いました。
この頃から玉は、キリストへの信仰心を持ち始めているようです。