細川ガラシャの足跡
(全7回)



今から約400年前、
戦乱の日本で、
イエス・キリストを熱心に愛し、
全幅の信頼をおいて主に従い通した
1人のクリスチャン女性がいました。


 D禁教の嵐の中で

 玉が味土野で幽閉生活をしている間に、秀吉は九州を残し全国を平定し、大阪城を築城しました。また、城の周りに諸大名の邸宅を強制的につくらせ、そこに大名の妻子を住まわせるよう命令を出し、細川家でも、大阪の玉造に立派な屋敷を造りました。この命により、事実上大名の妻子たちは「人質」となり、秀吉に反旗を翻すことは不可能になりました。また、秀吉は、忠興に玉との復縁を許し、玉は幽閉を解かれて大阪玉造に移ってきました。1584年、玉22歳の頃でした。

 好色漢秀吉は、大名が出陣している間、「留守の見舞いをするから大阪城に来い」と城下に住む大名の妻たちを片っ端から呼び出してはなぐさみものにしていました。当然「絶世の美女」と言われた玉も召し出されました。既に信仰が強固なものとなっていた玉の内面に、秀吉は他の女性とは違う、人間の欲を離れた存在を感じ、玉は秀吉の毒牙を逃れました。しかし、忠興はこれ以来17名の侍女をつけ、玉を絶対外出させないようにし、玉は軟禁同様の生活を強いられ、外出は一切許されませんでした。

 1587年、玉は、夫忠興が九州に出陣している間に、侍女の格好をして教会に行きました。それが玉にとって初めてであり、また最後の機会となりました。折りしもその日は、イースター(復活祭)でした。その時に、高井コスメ伝道師から聖書の話を聞きました。是非、洗礼を受けたいと願い出ましたが、セスペデス神父は秀吉の回し者でないことを確認した上で、外出の難しい玉に対し、文通にてしばらく質疑応答することにしました。このようにして、玉は清原マリアたちを使者としてさまざまな質問をし、長い間の疑問が少しずつ解けていきました。しかし、玉が外出を許され、洗礼を受ける機会は与えられませんでした。

 一、日本は神国により切支丹の宗門を禁ず。
 一、神父、修道士は海外に追放する。

同年、秀吉は九州をついに平定。キリスト教禁教令を出し、宣教師を追放しました。しかし、玉の決心は固く、何とか洗礼を受けたいと願いました。その願いが聞かれ、セスペデス神父は、清原マリアに洗礼の授け方と、受洗者の心得とを丁重に教え、邸内で受洗させることにしました。これにより、玉はマリアを通し、切望していた洗礼を受け、ガラシャ「神の恵み(Gracia)」というクリスチャンネームをいただきました。

ガラシャの信仰に清原マリアが大きく影響与えていたのと同時に、高山右近の存在も彼女に影響を与えていたと思われます。右近と忠興は親しく、夫の口から右近のことを玉は耳にしていたと思われます。主のしもべとして、何もかもを捨てて信仰を守り通した右近の生き方に心引かれていたかもしれません。恐れることなく秀吉の目前で宣教を続けながら、その秀吉と友人として茶湯を楽しみ、決して己の利を求めて権力者の顔色を窺うことをしなかった右近。彼は、禁教令が出た後でも、最後まで教えを守りぬき、高槻領主でありながら領地を捨てて国外追放され、マニラで召天されました。右近のように、決然たる心を信仰のうえで示すことは彼女の祈りであったに違いありません。


(文責)サムエル鳥谷部





参考文献

 「細川ガラシャ〜炎の十字架〜」 さかいともみ著
 「細川ガラシャのすべて」 上総英郎編
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