細川ガラシャの足跡(全7回)



今から約400年前、
戦乱の日本で、
イエス・キリストを熱心に愛し、
全幅の信頼をおいて主に従い通した
1人のクリスチャン女性がいました。


 殉教の時(最終回)

 1596年12月、26人のクリスチャンが見せしめのため長崎の西坂ではりつけにされ殺されました。その後1598年暴君秀吉が死に、その後に起こった日本の混乱の中に、ガラシャは最期の時を過ごしました。

 1600年、全国は徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍の2つに分かれました。細川忠興は家康側につき、今まさに関ヶ原の戦いへと突入しようとしていた7月17日。忠興の出陣中を狙い、石田三成は天下取りの戦いに備え、家康側についている忠興の夫人ガラシャを「人質」として奪い大阪城内に留め置こうとしました。ガラシャは既に覚悟ができており、侍女たちを子供たちとともに安全な場所へ移し、最後の祈りを捧げた後、自分の手によって自刃することを選ばず、家老小笠原少斎の手によって絶命しました。少斎は、ガラシャの死を見届けると、細川邸に火薬をまいて火をつけ、他の家臣たちとともにその場で切腹しました。三成軍はその後、裏切り者が続出し結束が崩れ、関ヶ原の合戦で、みじめな敗退をし、処刑されました。

ガラシャの死は、多くのクリスチャン、そして、他の人々にも感動を与えました。噂は日に日に広まり、世論を恐れた三成は、人質をとることをあきらめ、これにより三成側の弱体化が進み、家康側が逆転勝利をもたらしたとも言われています。

ガラシャの周りの多くの者たちがクリスチャンになっているのは偶然ではないでしょう。ガラシャの侍女17名と多くの家臣が、イエス・キリストを信じ受洗の恵みに預かりました。また、ガラシャの次男興秋がマリアから洗礼を受け、長女の長(ちょう)、次女の多羅もクリスチャンになっております。また、夫忠興の実弟興元も受洗しジョアンという洗礼名を受け、ガラシャの死後、忠興の母も受洗しマリアという洗礼名を受けました。また、細川家の家老小笠原少斎の三男玄也も妻子ともに立派な殉教の死を遂げたクリスチャンでした。

 このように厳しい禁教下にも命がけで信仰を貫いたガラシャの生涯は、一粒の麦となり、また多くのクリスチャンにとって、信仰者の手本となり、残酷な迫害・拷問に決して屈しない力となりました。

 天下を治めた戦国の武将達は、風のように過ぎ去っていきました。しかし、ガラシャは、神の恵みにより、様々な悪に屈することなく、自由に、真実に、強く、希望に輝いて、戦乱の世にあって、真の勝利者としてその信仰の生涯を全うしたのでした。

“私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来るからだ。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決してゆるがされない。”詩篇62:6〜7





































































(文責)サムエル鳥谷部





参考文献

 「細川ガラシャ〜炎の十字架〜」 さかいともみ著
 「細川ガラシャのすべて」 上総英郎編
玉造にある大阪カテドラル聖マリア大聖堂
ガラシャが味土野から迎えられて16年間
暮らした細川屋敷跡。
この屋敷で彼女は洗礼を受け、そして死んだ。
大聖堂の一部が屋敷跡を占めると考えられている。
ここにある、細川ガラシャ像。
玉造の細川屋敷の台所と考えられ
ている井戸。
聖マリア大聖堂の近くにある。
『散りぬべき時知りてこそ世の中の
花も花なれ人も人なれ』の辞世の
一首が刻まれている。
炎迫り来る中、主に最後の祈りを捧げるガラシャ。
大聖堂内にある。
玉造の細川屋敷の北にそびえる大阪城。天下人の絶大な権力に対しても、主のしもべガラシャは恐れなく、主に対する真実を尽くした。
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