細川藩の殉教者たちの足跡
                    (第1回)


 細川忠興



 1600年、全国は徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍の2つに分かれました。今まさに「天下分け目の」関ヶ原の戦いへと突入しょうとしていた、16007月、細川ガラシャが、最後まで主への信仰を貫き通して壮絶な死を遂げ(詳しくは細川ガラシャのページをご覧ください。)、これがきっかけの一つとなり石田三成率いる西軍の結束は崩れ、その2ケ月後の16009月、関ヶ原の戦いにおいて、ガラシャの夫、細川忠興(ただおき)の属する東軍は勝利を得、家康は天下を掌握しました。1603年、家康は朝廷より征夷大将軍に任命され、江戸幕府が開かれました。細川忠興は、この戦いでの功労を評価され、1601年、豊前(ぶぜん)国・中津(今の大分県中津市)39万6千石、翌年の1602年、小倉(今の福岡県北九州市)399千石の領主となりました。

 関ヶ原の戦いの後、1601年豊前に移った細川忠興は、妻ガラシャの命日に、セスペデス神父を招いて、記念ミサを行わせ、礼として神父に多くの金品を贈りました。また、その時に、20数人の死刑囚の特赦がなされ、彼らは教会を訪れ、洗礼の恵みに預かりました。忠興はさらに、領内で宣教師が布教することを許し、伝道所や教会堂を建てることも許可しました。その中で、忠興の母は、しばしば教会を訪れて教えを聞き、クリスチャンとなったと言われています。

 しかし、これらのことは長くは続かず、家康がキリスト教の大禁教令を出す3年前の1611年、忠興は、一転、領地から宣教師たちを追放し、教会堂の破壊を命じました。妻ガラシャ亡き後、本妻をおかず乱倫の生活を送っていた忠興にとって、キリシタンの立派な節制ある生活は、彼に対する無言の詰問となり、傲慢な忠興の気にさわったとも言われています。(ペドロ・モレホン「日本殉教録」)

 いずれにせよ、1613年に家康が禁教令を出すと、忠興は直ちに、領内にいるクリスチャンの家臣たちに厳しく棄教を命じました。

その細川藩で仕え、死に至るまで忠実に主に従い通した4人のクリスチャンがいました。16191015日、小倉で殉教したディエゴ加賀山隼人(はやと)。同日、豊後の日出(ひじ)(現在の大分県日出町)で殉教した、加賀山隼人のいとこに当たるバルタザル加賀山半左衛門。そして、ガラシャの介錯(かいしゃく)をし、切腹をした細川家の家老、小笠原少斎の三男で、1636年、熊本で殉教した小笠原玄也と、その妻、加賀山みや(加賀山隼人の娘)です。彼らの足跡を辿っていきます。

(文責)サムエル鳥谷部





参考文献

 「日本キリシタン殉教史」 片岡弥吉著
 「キリシタン地図を歩く(殉教者の横顔)」 日本188殉教者列福調査歴史委員会編
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