細川藩の殉教者たちの足跡
(第12回)
小笠原玄也と加賀山みやB
このように、玄也・みやの二人は、終始一貫してイエス・キリストを愛し、主に対する堅い信仰を表明し、決して福音を恥とすることがありませんでした。
1614年、細川忠興は、徳川家康がキリスト教の禁教令を出すのに従い、領地から宣教師を追放し、教会堂の破壊を命じ、さらに領内にいるクリスチャンの家臣たちに厳しく棄教を命じ始めました。
一方で、忠興は、妻ガラシャの最後を守った小笠原少斎に報いる気持ちから、少斎の息子たちを特別に厚遇していました。長男の長基(ながもと)に6千石、次男の長良(ながよし)に600石をも与え、しかも細川家からそれぞれに妻を与え、身内のような扱いをしていました。その三男である玄也夫婦が、幕府の禁教であるキリスト教を信じ、その信仰を表明し続けることは厄介なことでした。
玄也は、忠興が江戸から帰国するまでの間に、長崎より司祭を招き殉教の備えをしました。忠興は、玄也一家を助けるためにも彼らの信仰を捨てさせようとしました。忠興は、1人の家臣を玄也の所に遣わし「遠慮しないで、キリスト信仰を捨て、殿(忠興)の命令に従う、と言いなさい。」と言わせました。
しかし、玄也は次のように答えました。「私がクリスチャンになったのは、人への義理や物好きからではなく、これをなくしては、自分の霊魂が救われないことを切実に知ったからです。キリスト信仰を捨てる考えは毛頭ありません。」
数日後、忠興は2通の書状を玄也に渡しました。そのうちの1通には、「王(家康)、将軍(秀忠)、あるいは殿(忠興)が背教を命じなさろうとも、キリスト信仰を捨てません。」と書かれており、もう1通には、「キリスト信仰を捨て、祖先伝来の宗教に戻ります。」と書かれてありました。よく考えて、2通のうちの1通を出すようにとの命令でした。
玄也の心は既に定まっており、「キリスト信仰を捨てない」、という書状を差し出しました。
“人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。”
(マタイ16:26)
(文責)サムエル鳥谷部