細川藩の殉教者たちの足跡
                    (第13回)


 小笠原玄也と加賀山みやC


 殿(細川忠興)は、この書状を見ましたが、それについて何も言わず、玄也について話すことさえしませんでした。他のクリスチャンの家臣には厳しく棄教を命じていたにもかかわらず、玄也一家に対しては、「身内の者なのだから、許してやれ」とさえ命じ、放免しました。

 しかし、徳川政権はさらにその支配力を強めていき、1619年、二代将軍徳川秀忠は、諸大名にみせつけるように、京都六条河原で52名のクリスチャンを火刑にしました。忠興はこれを見て、すぐに同年10月15日、細川家の重臣、ディエゴ加賀山隼人を初め、領内のクリスチャンの処刑を断行しました。このような中で、玄也の兄であり、一度イエス・キリストを信じた長良(ながよし)は、背教していきました。

 殿・忠興にとって、かつて浪人中の時に、細川家に拾われた加賀山隼人とは違い、たとえ禁教を信じる者であっても、小笠原家を弾圧するのは忍びないことでありました。忠興は、玄也一家に対し、処刑の決定をしなかったものの、彼らにただ捨扶持(すてぶち)※として二十三人扶持(一人扶持は1日米五合の扶持米)を与え、小倉から追放しました。

※慈悲で施す寄付のようなもの

 玄也とみやの一家は、小倉郊外の片田舎に、百姓たちや、やくざ者たちの中に追放され、厳しい貧困の中を、百姓をしながらどうにか生き延びていきました。かつては武士として、富も身分も権力もあった彼らが、今は、貧しい農民たちの中で、奴隷であるかのように働きました。希望すれば豊かな生活に戻ることもできるのに、彼らは、どんな卑しい仕事であっても厭うことなく行い、むしろ感謝に満ちてこの境遇を受け取り、何より、この愛するイエス・キリストに、死に至るまで忠実にお従いさせていただきたい、と願うのでした。

 “私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。”Uコリント4:8〜9


(文責)サムエル鳥谷部




参考文献

 「日本キリシタン殉教史」 片岡弥吉著
 「キリシタン地図を歩く(殉教者の横顔)」 日本188殉教者列福調査歴史委員会編

 「細川ガラシャのすべて」 上総英郎編
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