細川藩の殉教者たちの足跡
                    (第14回)


 小笠原玄也と加賀山みやD


 1622年長崎の西坂の丘で55名が殉教し(元和の大殉教)、翌年の1623年、第三代将軍徳川家光の就任とともに、50名が江戸にて焼き殺されました。これらは、1619年の京都六条河原においての52名の殉教とともに三大殉教と呼ばれ、クリスチャンにとっては、さらに厳しい迫害の時代となっていきました。特に、西国においてそれは顕著で、多くの者たちが背教し、ある者たちは命からがら東国へと逃れていきました。そのような中にあって、玄也とみやの一家は、非常な貧しさのただ中にあっても、他人から受けた恩を感謝しつつ、神様が与えてくれた9人の子供たちとともに、信仰に堅く立ち続けました。

 9人の子供たちの名前は、源八、マリ、クリ、左左衛門、三右衛門、四郎、五郎、つち、権之助の男の子6人、女の子3人でした。フランシスコ・ザビエルがこの国において宣教を開始し、加賀山隼人の父と母が信仰を持って以来、この家系に脈々と流れてきたイエス・キリストに対する熱い信仰は、玄也・みや夫妻を通し、さらにこの9人の子供たちにも受け継がれていきました。

 地獄のような、西国の厳しいクリスチャンに対する迫害がなされていく中で、神様は、この一家に特別な守りを置いていました。西国の諸大名が、揃って幕府の禁教政策にならい、憎悪を持ってクリスチャン狩りをしていく中で、西国唯一の緩衝地帯は、細川忠興が治める豊前小倉でした。

 1621年、忠興が病に倒れ隠居し、代わって忠興の三男忠利(ただとし)が藩主となりました。この忠利はクリスチャンではありませんでした。しかし、彼はクリスチャンであった母(細川ガラシャ)に愛され、祈られてきました。母を通してイエス・キリストのことを聞き、イエス・キリストを信じる人々と交わる機会がありました。また彼は、キリストを信じる者の内にある特別な力を見、知っていました。それ故、忠利は、このような時代の流れの中で、過酷なクリスチャン迫害に走ることなく、クリスチャンに対して好意的な態度を取り続けました。こうして、貧しさの中にも、玄也・みや一家の信仰は守られていきました。



“これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。”ヘブル11:13

(文責)サムエル鳥谷部




参考文献

 「日本キリシタン殉教史」 片岡弥吉著
 「キリシタン地図を歩く(殉教者の横顔)」 日本188殉教者列福調査歴史委員会編

 「細川ガラシャのすべて」 上総英郎編
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