細川藩の殉教者たちの足跡
                    (第15回)


 小笠原玄也と加賀山みやE


 それから11年の間、玄也・みや一家は非常な貧しさの中を、堅く信仰に立ってあらゆる困難を乗り越えていきました。1632年、徳川家光は、豊前(現在の福岡県と大分県の北側の一部)の大名であった細川忠利を肥後(熊本県)・豊後(ぶんご、大分県の南側)54万石の領主として、熊本城に移しました。忠利が豊前を去った後すぐ、今まで忠利のもとに保護され、小倉(現在の北九州市)を宣教の拠点として福音伝道を続けた中浦ジュリアンという神父は逮捕され、長崎に送られ、西坂の丘で逆さつるしの拷問を受け殉教しました。

 玄也は、これで忠利の保護が無くなることを覚悟しました。しかし、忠利は、玄也・みや一家に自分の行く肥後に移るように命じました。同時に、これを機にもう一度、信仰を捨てることを彼らに迫りました。しかし、やはり玄也はこれを堅く拒み、あくまで救い主イエス・キリストを信じる信仰を貫き通す意思を、手紙を通してはっきりと忠利に伝えました。忠利は、目をつぶりそのまま彼らを肥後に召し連れ、以前のように「二十三人扶持」を与えました。

玄也・みや一家は、熊本の塩屋町に移り住み、以前と同じ非常な貧しさの中にも、一家でいつも神様に祈り、福音を宣べ伝え、希望に輝いて生活を続けました。

時は、幕府の鎖国政策が始まり、幕府がさらに徹底した厳しい禁教政策を行う1年前のことでした。

“ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。けれども、私が自分の走るべき工程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。”
(使徒20:23〜24


(文責)サムエル鳥谷部




参考文献

 「日本キリシタン殉教史」 片岡弥吉著
 「キリシタン地図を歩く(殉教者の横顔)」 日本188殉教者列福調査歴史委員会編

 「細川ガラシャのすべて」 上総英郎編
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