細川藩の殉教者たちの足跡
(第16回)
小笠原玄也と加賀山みやF
1633年、江戸幕府は鎖国政策を開始し、それと同時にキリスト教に対する禁教政策はいよいよ厳重なものとなっていきました。長崎での、キリスト信者根絶を目的とした諸政策は、西国全体に大きく影響を与えていきました。
細川忠興は、領内の禁教政策の甘さを指摘し、細川家が生き延びるためにも、長崎の政策に追随し、徹底した禁教政策を実施するよう息子忠利に命じました。肥後の前領主加藤忠弘の改易とその一族の滅亡を見ていた忠利にとって、もはや残された道は一つしかありませんでした。
この年から忠利は、肥後国における住民全員に、自分の宗教を届け出ることを義務付けました。さらに長崎に習い、五人組制度という連帯責任制度を用い、お互いに監視するように仕向け、踏み絵によりキリスト教徒を摘発し厳しく改宗を迫まりました。1634年8月には肥後国の町々村々に、キリスト教禁教の高札が立てられ、同年11月さらに長崎奉行所の名で、キリスト教徒を訴え出た者には懸賞を与える、という高札が立てられました。
一方、多くの訴人が出る中で、玄也・みや一家が懸賞目当てに長崎奉行所に訴えられはしまいかと忠利は恐れました。長崎に訴人が出ない限りは、彼らを保護したい気持ちだったのです。
さらに、1635年9月から12月にかけ、全国一斉のクリスチャン狩りが行われました。このような中、玄也・みや一家が訴えられるのは時間の問題でした。
忠利は、最後の試みとして、細川藩の重臣を多く遣わし、玄也・みや一家に改宗を勧めました。また、みやの妹婿である奥田権左衛門や玄也の兄で途中で背教した小笠原長良も再度遣わされ、説得に当たりました。玄也とみやは、忠利や知人たち、そして自分たちの身内の者の優しさに感謝し涙しました。しかし自分たちを罪より救い出し、永遠の命を与えるために十字架にかかられ、死からよみがえってくださった救い主イエス・キリスト、この方を信じる信仰は自分たちの命に代えても捨てることはできませんでした。
”私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。”ピリピ1:21
(文責)サムエル鳥谷部