細川藩の殉教者たちの足跡
                    (第17回)



 小笠原玄也と加賀山みやG


 さらに、1635年11月1日、また新しい高札が立てられました。そこにはこう書かれてありました。

 ばてれん(宣教師)を通報した者には銀100枚、いるまん(伝道師)を通報した者には銀50枚、一般の信徒を通報した者には銀30枚。(何と、イスカリオテ・ユダがイエス・キリストを売ったのと同じ値です!)

 “そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。”マタイ26:14〜16

 こうして幕府は、キリスト者の摘発をさらに徹底していきました。細川忠興も忠利も、玄也・みや一家が訴えられないかと心配し、せめて子供たちだけでも救いたいと思い、子供たちを他国にやらせるよう重臣たちに何度も命じました。しかし、玄也夫婦は自分たちと一つ心になってイエス・キリストを信じてきた子供たちを自分たちのもとから離すことに躊躇を覚えていました。自分たちの信仰は、命と引き換えであっても決して捨てない覚悟はできていましたが、子供たちのことを考えると迷いました。

 ちょうどそのような時、忠利にとっても最も心配していた事態が起こってしまいました。玄也・みや一家は熊本ではなく、長崎奉行所に密告されてしまいました。長崎奉行所は忠利に、直ちに彼らを捕らえるように命じ、これには忠利もどうすることもできず、結局子供たち全員も含め15名は捕らえられ、座敷牢に入れられてしまいました。1635年12月11日のことでした。

忠利は、「長崎奉行所がこちらで処理せよ、ということであれば、彼らを牢に入れておくように。そして余り厳しく言ってこないようであれば、できるだけ親切に扱うように。それから、密告した者には、何故熊本ではなく長崎奉行所に訴え出たのかを尋ねなさい。」と重臣に伝えました。

 こうして、玄也・みや一家は1636年1月30日までの冬の寒い中、最後の50日間を牢屋の中で過ごしました。親しい人たちに多くの手紙を書き、また、背教していった者たちには、もう一度イエス・キリストを信じる信仰に戻るよう強く薦める手紙を書いて過ごしました。

 
(文責)サムエル鳥谷部




参考文献
 「日本キリシタン殉教史」 片岡弥吉著
 「キリシタン地図を歩く(殉教者の横顔)」 日本188殉教者列福調査歴史委員会編

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