細川藩の殉教者たちの足跡
(第19回)
小笠原玄也と加賀山みや(最終回)
1636年1月30日、玄也とみや、そして源八郎、まり、くり、佐左衛門、三右衛門、四郎、五郎、つち、権之助の9人の子供たち、そして4人の主を信じこの小笠原家に仕えた女たちの、合計15名が、禅定院で切られて殉教の死を遂げました。
いま、熊本郊外の花岡山の中腹に彼らの墓があります。この墓は、殉教から190年程経た文政年間(1818〜1829)に発見されました。当時、殉教者の遺体は焼いて灰にして海に捨てていました。また、幕府によって教会墓地が徹底的に破壊されたので、遺体を埋葬した墓穴はほとんど残っていません。その中にあって、このお墓は不思議に今日まで守られてきました。
時は移り、文明開化の1871年(明治3年)、熊本に、欧米文化・技術を学ぶため熊本洋学校が設立されました。アメリカ人L・L・ジェーンズが教師として招かれました。彼は、英語、数学、地理、歴史、物理、化学、天文、地質、生物などの各教科をすべて一人で教え、また、家において持たれた聖書研究会でイエス・キリストについて教えました。
1876年1月、彼を通しイエス・キリストを信じた40名の学生たちが、この花岡山に登り、祈祷会を開き、“キリスト教をもって祖国を救う”、という主旨の「奉教趣意書」に署名し誓約をしました。
玄也とみや一家がイエス・キリストを愛し、最後までその信仰を捨てずに殺され、この花岡山に葬られてから240年後のことでした。
禁教令が撤去された直後とはいえ、このことにより学校はすぐに閉鎖され、ジェーンズは解雇されました。しかし、彼らはジェーンズの助言を受け京都に移り、新島襄により1875年に設立されたばかりの同志社に入学しました。彼らは、「札幌バンド」、「横浜バンド」と並び、「熊本バンド」と呼ばれるようになり、近代日本プロテスタントの三大源流の一つを形成し、多くの人たちに福音を述べ伝えていきました。
“どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。・・・・・・・・このイエス・キリストはすべての人の主です。”
使徒10:35〜36
(文責)サムエル鳥谷部