細川藩の殉教者たちの足跡
                    (第2回)


 加賀山隼人@



 

 細川藩において、死に至るまで忠実に、主に従い通した多くの殉教者がいました。

その中の1人、加賀山隼人(かがやまはやと)は、フランシスコ・ザビエルが、キリスト教を布教し始めた16年後の、1565年、摂津(せっつ)高槻(今の大阪府高槻市)で生まれ、家族全員が熱心なクリスチャンでした。彼は、10歳の頃、主イエス・キリストを信じ、これからの人生をイエス様のために生きることを心に決め、ルイス・フロイス神父を通し、受洗の恵みに預かりました。時は、織田信長が、キリスト教を公認しており、多くの教会が作られ、多くの者がイエス・キリストを信じ救われていった時代でした。

それから12年後の1587年、信長の死後、天下統一を成しとげた豊臣秀吉が、突如バテレン(宣教師)追放令を発しました。その時隼人は、高山右近の家臣として仕えていました。右近はこの時、秀吉の棄教命令に屈せず、大名としての地位も名誉も明石6万石の領地も捨て、イエス・キリストを信じる信仰を守りました。主従関係の中にはありましたが、隼人は右近の生き様を通し、イエス・キリストを信じる信仰者の歩むべき道を教えられていたのでした。

“彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。”                                                                                                                 ヘブル11:26

彼の54歳で殉教の死を遂げるまでの、イエス・キリストにある、決して揺るがされることのない堅固で豪快な信仰はこの頃に養われていきました。



(文責)サムエル鳥谷部





参考文献

 「日本キリシタン殉教史」 片岡弥吉著
 「キリシタン地図を歩く(殉教者の横顔)」 日本188殉教者列福調査歴史委員会編
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ジュスト高山右近