細川藩の殉教者たちの足跡
                    (第3回)


 加賀山隼人A






 自分の主人と国を失ってしまった高山右近の家臣たち、特にクリスチャンの家臣の何人かが、勇猛な戦国武将、蒲生氏郷(がもううじさと)に従い、会津地方(現在の福島県)にやってきました。ディエゴ加賀山隼人も、その中の1人でした。

蒲生氏郷は、高山右近、細川忠興とともに、「利休七哲」※1人であり、1584年28歳の時、高山右近を通してイエスキリストに出逢い信仰を持ったクリスチャンであり、洗礼名をレオと言います。1590年、秀吉の小田原出兵に従軍し功をたて、それにより、会津黒川城42万石を与えられ、後に黒川を若松と改名し、会津92万石の大大名となりました。

※(りきゅうしちてつ)千利休の高弟七人を指す。「利休弟子衆七人衆」とも言い、他に芝山監物、瀬田掃部、牧村兵部、古田織部がいる。)

この氏郷が、隼人や他のクリスチャンを初め、右近の家臣だった多くの者を喜んで引き取ったのです。氏郷は、この地にイタリヤ人宣教師を招き福音宣教に努め、ローマに使節を4度も派遣し、ローマとの交流を深め、黄金や陶磁器を贈る代わりにキリスト教教書、十字架、大砲や小銃などを贈ってもらいました。氏郷の治めたその時代、会津は、東北地方に於いて、最初にキリスト教の中心地となりました。

 この主人のもとで、25歳の隼人の信仰生活は守られ、さらにその信仰は成長していきました。伝道熱心だった隼人は、この間にも多くの人に福音を述べ伝え信者の数が増えていきました。

“さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者には誰にも、みことばを語らなかった。ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシャ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。”使徒11:1921

 このように、右近に対する迫害により藩内の多くのクリスチャンが散らされ、結果、福音の言葉が日本各地に拡がるきっかけとなったのでした。


(文責)サムエル鳥谷部




参考文献

 「日本キリシタン殉教史」 片岡弥吉著
 「キリシタン地図を歩く(殉教者の横顔)」 日本188殉教者列福調査歴史委員会編
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レオ蒲生氏郷
(がもううじさと)