細川藩の殉教者たちの足跡
                    (第4回)


 加賀山隼人B






 しかし、加賀山隼人の主人である蒲生氏郷(がもううじさと)は、会津92万石の城主となったわずか5年後の1595年、病のため死に、隼人はまたも諸国を放浪することになりました。そして見つけた新しい君主が、細川ガラシャの夫であり、当時丹後の城主であった細川忠興でした。時は、26人のクリスチャンが長崎・西坂に於いて殉教の死を遂げる1年前であり、隼人はその時29歳でした。

利休七哲の1人であった忠興は、同じ七哲の1人であった高山右近や、蒲生氏郷とも親しく、クリスチャンの信仰についてもかなり聞き知っていました。しかし、お家大事の忠興にとって、豊臣秀吉が禁じているこの宗教は危険なものであり、また、クリスチャンが一夫一婦の貞節を守っていることも、側室を設けていた忠興にとってはケムたいものでした。また、妻は夫の従属物としか見なされなかった当時において、自分の妻である玉(ガラシャ)が、自分の許可なく勝手に入信し、三男・忠利まで勝手に幼児洗礼を授け、自分の棄教命令にさえ決して従わなかったことは、忠興にとっていまいましいことでありました。忠興は、結局最後までイエス・キリストを信じる信仰を持つことはありませんでした。

そのような忠興のもとで仕えていたキリストのしもべ隼人でしたが、右近、氏郷に仕えてきた彼は忠興の篤い信頼を得、重臣として登用されました。
 1600年、関ヶ原の戦いの直前に、忠興夫人ガラシャは、小笠原少斎の介錯により死に(詳しくは細川ガラシャをご覧ください)、関ヶ原の戦いで細川忠興が従った徳川家康軍(東軍)が、石田三成軍(西軍)を破り、忠興は、この戦功により、家康から豊前国(ぶぜん、現在の福岡県と大分県)中津に39万6千石を与えられ、隼人もこの戦功により、6千石を忠興からもらい受け、忠興に従い豊前に移ってきました。またこの頃隼人は、
忠興から一字もらって、加賀山隼人正興良(かがやまはやとのかみおきよし)と改名する程に、忠興からの信任を得ていました。

 “奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。”
                          (エペソ6:5〜8)


(文責)サムエル鳥谷部




参考文献

 「日本キリシタン殉教史」 片岡弥吉著
 「キリシタン地図を歩く(殉教者の横顔)」 日本188殉教者列福調査歴史委員会編

 「細川ガラシャのすべて」 上総英郎編
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