細川藩の殉教者たちの足跡
                    (第5回)


 加賀山隼人C


 徳川家康は天下を掌握し、1603年、朝廷より征夷大将軍に任命され、江戸幕府が開かれました。豊前に移った細川忠興は当初、妻ガラシャの命日に、セスペデス神父を招いて記念ミサを行わせたり、領内で宣教師が布教することを許し、伝道所や教会堂を建てることを許可したりしました。その中にあって、隼人は福音を述べ伝え、それを聞いた多くの者たちがイエス・キリストを受け入れました。

しかし、家康がキリスト教の禁教令を出す3年前の1611年、忠興は、一転、領地から宣教師たちを追放し、教会堂の破壊を命じ、1614年に家康が禁教令を出すとそれに従い、忠興は、領内にいるクリスチャンの家臣たちに厳しく棄教を命じ始めました。
 
 隼人はその時、江戸城修築工事の細川藩指揮者として登用され、江戸に派遣されていました。江戸幕府は、大名の軍事力・経済力を削減させるため「普請役」※を義務づけたためです。忠興は、藩内部の実力者であり、自分にとっても重臣であった隼人を、当初は黙認してきました。

 ※江戸城等、公的施設の修築や治水工事への経済的・実際的負担

しかし、幕府のキリシタン禁制はますます厳しくなり、そのため1614年から19年に渡る5年間、彼を惜しんだ忠興は、さまざまに説得し、隼人とその家族の信仰を捨てさせようと執拗な努力を続けました。そのような主従関係の中で隼人は、家臣としての忠節を最大限尽くしながらも、イエス・キリストを信じる信仰については一歩も引くことはありませんでした。この世の主人ではない、本当の主であり、救い主である、イエスキリストの前に真実を尽くし続けたのです。

「もし、殿(細川忠興)が、信仰を捨てるように仰せられるのなら、その前に私たち夫婦、また家族全員の首を斬る者を遣わしてくださるようお願い申し上げます。私は、信仰を変えませんし、私の返事によって殿に、恩を忘れた、無礼な奴と思われたくはありません。信仰以外のことについては、忠実な者として殿にお仕えさせていただきたいのですが、クリスチャンの信仰を捨てて自分を欺くことはできません。」ペドロ・モレホン「日本殉教録」続篇

“神に聞き従うより、あなたがに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断し てください。”使徒4:19

“人に従うより、神に従うべきです。”使徒5:29


(文責)サムエル鳥谷部




参考文献

 「日本キリシタン殉教史」 片岡弥吉著
 「キリシタン地図を歩く(殉教者の横顔)」 日本188殉教者列福調査歴史委員会編

 「細川ガラシャのすべて」 上総英郎編
戻る