細川藩の殉教者たちの足跡
                    (第7回)


 加賀山隼人(最終回)


 隼人に死刑の宣告がされた日、妻マリヤと三人の子供たちは、自分たちだけが生き残らなければならない事を悲しみ、隼人にすがりついて泣きました。ディエゴ加賀山隼人は、妻マリヤと子供の1人ルシヤをしかり、今は悲しみ嘆く時ではなく、大いなる喜びをもって祝うべき時である、と二人をさとしました。

それから、彼は十字架の前にひざまずき長い祈りの時を持ちました。最後に自分自身と、この地上に残していく家族のことを、全て神様の御手に委ね祈りを終えました。ついに、ディエゴは、家族と離別の杯を交わし、ただ大祝日にのみ着用していた、特別な晴着と、グレゴリオ・セスペデス神父からもらった記念の洋服を身にまとい、警吏の前に出て行きました。こうして、ディエゴは小舟に乗せられ、忠興の住む小倉城から遠くない定めの刑場へ連行されました。

航海中、ディエゴは、この最後の時を用いて同船の者たちに、イエス・キリストこそが、救われるための唯一の道であることを説き続けました。今日クリスチャンが非常に迫害されていても、必ず平和は回復させられ、キリストの福音が一層豊かな実を結ぶ時代が来るだろう、と信仰の告白をなし、それから、主の前に静まり、1人主に祈りました。

舟から上がったディエゴは、刑場のある丘の上に着く最後の時まで、伴った1人のクリスチャンの兄弟と、祈ったり、詩篇の御言葉を唱えたりしました。頂上に着いて、彼は、ひざまずいて祈り、イエス・キリストの御名を呼び、その上で刑吏にどうしたらうまく首を斬ることができるかを教え、静かに太刀を受けました。殺されたのは、1619年10月15日、ディエゴ加賀山隼人、54歳の時でした。

“まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。”
                           ヨハネ12:24

 ディエゴの、死にいたるまで忠実な信仰は、家族や、細川藩の多くの者たちに継承されていきました。


(文責)サムエル鳥谷部




参考文献

 「日本キリシタン殉教史」 片岡弥吉著
 「キリシタン地図を歩く(殉教者の横顔)」 日本188殉教者列福調査歴史委員会編

 「細川ガラシャのすべて」 上総英郎編
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