細川藩の殉教者たちの足跡
                    (第8回)


 加賀山半左衛門@


 ディエゴ加賀山隼人の従弟の1人に、バルタザル加賀山半左衛門というもう1人の、死に至るまで忠実だったクリスチャンがいました。彼もまた、隼人が殺されたのと同じ1619年10月15日、彼の4歳の息子ディエゴとともに、豊後の日出(ひじ)(現在の大分県日出町)で殉教の死を遂げました。

1619年のイエズス会年報には、彼の最期について報告がなされてありました。

彼は、豊後において、豊前の細川忠興の家臣として仕えていました。彼はその地の年貢を取立てる役に当たり、何不自由なく裕福な生活をしていた人でした。彼は、ディエゴ加賀山隼人と同じく、ただイエス・キリストを信じるという信仰の故に、その地位を退けられ、追放され、貧困、監視等多くの不自由を勇ましく耐え忍びました。

使いの者から、死刑の宣告を聞かされた時、バルタザルは、少しも動揺することなく晴れやかに、殿(忠興)に謝意を述べ、家に入り、母のジュスタ、妻のルチア、娘のテクラと最後の挨拶をかわし、それから一同に向かい、労苦を耐え忍び、信仰の道を全うし、最後まで身を聖く保つよう勧め、励ましました。そうして、殉教という形で自分の信仰を貫き、全うできるように導いてくださった神様に、心からの感謝をささげました。

使いの者は、バルタザルに「どこで殺されたいか」と尋ねました。彼は、一切を殿の決定に任せる旨を伝えました。しかし、娘のテクラは、「お父様、お父様は盗みやその他の悪事を働いたから処刑されるというわけではないのですから、家から一歩も出る必要は全くありません。家の中で殺されたっていいじゃないですか。それが、私たち家族にとっても一番嬉しいことです。」と口をはさんだ。   

そんな娘をたしなめ、バルタザルはこう言いました。

「イエス様は、何の罪もない方であったのに、町外れの公の刑場で、二人の盗賊にはさまれ、十字架にかかってくださったんだ。私もできるかぎり、主と同じ道を歩みたいのだ。」

“だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。”マタイ16:24〜25


(文責)サムエル鳥谷部




参考文献

 「日本キリシタン殉教史」 片岡弥吉著
 「キリシタン地図を歩く(殉教者の横顔)」 日本188殉教者列福調査歴史委員会編

 「細川ガラシャのすべて」 上総英郎編
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