細川藩の殉教者たちの足跡
(第9回)
加賀山半左衛門(最終回)
バルタザル加賀山半左衛門は、すぐに聖画の前にひざまずき、オラショ(祈祷書)をとり主に祈りを捧げました。その後、お祝い事のように、妻と娘から足を洗ってもらい、着物を着替え、片手に聖画を、もう片手には火を灯したローソクを持って刑吏の方に歩み出ました。その時、4歳の息子ディエゴが、泣きながら父にすがりつき、「私にもお伴させて下さいませ。」と願いました。刑吏から、息子にも死刑が宣告されていることを知り、バルタザルはニッコリと微笑み、晴着に着替えてくることを許しました。
刑場に着くとバルタザルは、この最後の時を用い、役人達に福音の言葉を語りました。
「私がキリスト教の教えを捨て、殿(細川忠興)の命令に従うよりも、むしろ首を差し出して斬られるのを見て、皆さんは私が気が狂ってしまったように思うかもしれません。しかし、私がこうするのは、この信仰によってのみ、人は魂の真の救いを受けられることを、知っているからなのです。この信仰により、私は、全世界の創り主なる神様は唯一であり、全ての人は1人も残らずイエス・キリストの裁きの前に立たなければならないことを知っています。
皆様が敬っておられる釈迦と阿弥陀ですが、後者は全くの架空の話で、前者は単なる人間であり、人の命を守り、人の寿命を延ばすことはできないのです。昔の王はもちろん、その他の仏信仰者も残らず死んでいきました。可愛そうにあれほど沢山の礼拝を重ね、数々の捧げ物をしても、自分の命を贖うことすら出来ないのです。
最高かつ真正なる神が一度定められた死の法則を誰も逃れることが出来ません。この神様が1人も残らず死ぬことを定め、御前において、或いは罪悪のために永遠の罰を、或いは正しい行為の為に永遠の光栄を受けさせるのであります。
ですから、私が再三再四皆様にお願い申し上げたいのは、この無上の創造主の掟と信仰とを心より受け入れて、永遠の救いを得られるように、という、ただこの一つのことだけであります。残りの人生は多くて20年か30年を数える程しかありません。しかし、イエス・キリストによる魂の救いは永遠であり、極めて重要なことですから、これだけは、他のいかなる歓楽よりも大切にしなければなりません。」
こう話してバルタザルはひざまずき、首をのばして太刀を受けました。その後に4歳の息子ディエゴも父の隣で斬られ、天に凱旋していきました。従兄であるディエゴ加賀山隼人の殉教した日と同じ、1619年10月15日、バルタザル47歳の時でした。
“この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。”使徒の働き4:12
(文責)サムエル鳥谷部