中浦ジュリアンの足跡
(第1回)
日本、そして世界の激動の渦の中で、イエス・キリストを一心に仰ぎ、多くの人たちにキリストを宣べ伝え、厳しい迫害下にあって、その命尽き果てるまで、多くの信徒たちを守り通した1人のクリスチャンがいました。
小佐々甚吾(後の中浦ジュリアン)は、1567年肥前国中浦(今の長崎県西海町)に生まれました。
時は、コロンブスが新大陸を発見(1492年)し、ヴァスコ=ダ=ガマがインド航路を発見(1498年)、マゼランの一行が初めて世界一周に成功(1522年)し、これにより地球球体説が初めて実証されてから、まだほんの50年ほどしか経たない頃のことでした。このインド航路発見後、ポルトガルは、インドのゴア、マラッカ、そして中国のマカオを拠点としてアジア貿易を拡大し、こうした中、1543年、1隻のポルトガル船が初めて日本の種子島に漂着(鉄砲伝来)、ヨーロッパ人と日本人が初めて出会い、1549年、ついにイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本人にイエス・キリストのことを宣べ伝え始めました。
その14年後の1563年、当時の肥前国大村(今の長崎県大村市)の領主、大村純忠が、日本で初めてのキリシタン大名となりました。甚吾は、この殿の下で仕えていた家臣の1人、大村領中浦の領主、小佐々甚五郎の後継ぎとして生まれました。
この1人の日本人こそが、イエス・キリストに出会い、この時代に、大村、有馬、大友の三キリシタン大名に送り出され、長崎から出帆して、遥かポルトガル、スペイン、イタリアなどを歴訪しローマ法王に謁見した「天正遣欧少年使節」の1人であり、その後、死に至るまで忠実なキリストの使節として、その命を持って福音宣教を続けた中浦ジュリアンです。これから彼の足跡を辿っていきたいと思います。
(文責)サムエル鳥谷部