中浦ジュリアンの足跡
(第14回)
ジュリアン達一行は、その後、聖フランチェスコで有名なアッシジ、ロレト、そして『水の都』ベネチア、ミラノ、ジェノバを通り、その後スペインのバルセロナに渡り、途中モンソンで再びスペイン国王、フェリペ2世に会い、それからマドリードに戻り、再びリスボンの街に戻ってきました。1585年11月下旬のことでした。
季節風の吹く翌年の春までそこに滞在し、いよいよ1586年4月12日、ジュリアン達は思い出深いヨーロッパをあとに、一路日本への帰途を急ぎました。帰途は、サン・フェリペ号という、国王の名前がつけられた船に乗りました。スペイン海軍所属の、多くの大砲を備えた大きな船でした。この船には、教皇をはじめ、フェリペ2世や多くの諸侯からいただいた数え切れないほど多くの贈り物が積まれていました。
その中には、印刷機がありました。これにより日本で、より多くの人達に福音を伝えることが可能になります。他にもチェンバロなど日本に初めてもたらされるものが、沢山含まれていました。リスボンを発つ時には、5隻の船で船団を組みゴアを目指しました。さらに南アメリカ、メキシコに向かう船23隻も加わり、大船団となって途中赤道まで航海を進めました。
順風にめぐまれ四分の一程の航海を終えたある日、すさまじい嵐に遭遇し、マストの帆げたが幾つもへし折られ、船は重心を失いもう少しで転覆しかけました。そのような中にあっても、ジュリアン達は、「顔色を変えることなく平静で、危難に直面すると、ただちに祈祷に専念していました。むしろ恐怖におののいている人たちを励ましていました。」と伝えられている程に信仰に堅く立っていました。既にこの旅において、幾多の困難にも勝利を現わしてくださった主を体験してきたジュリアン達にとって、目には見えなくとも主こそが何より確かな救いの岩であることは自明の事実となっていました。
このように何度も転覆しかけ、多くの困難を乗り越えて、ついに1587年5月29日、一行は、ヴァリニャーノ神父が待ちわびていたインドのゴアにたどり着きました。
使徒の働き27章から書かれている、使徒パウロがローマへ行く船旅のようです。ローマに着いたパウロは満2年ローマで福音を伝えましたが、最後は殉教しました。同じように、それは、これからの、日本におけるジュリアンの歩みを予表する船旅となりました。
“この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。主があらしを静めると、波はないだ。波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。”詩篇107:28〜30
(文責)サムエル鳥谷部