中浦ジュリアンの足跡
(第18回)
「日本の国王・秀吉に会い、どうにかして、国内のキリスト教の布教に理解を示してもらいたい!」それが、ジュリアン達の切なる祈りと願いでした。
祈りが満ちて1590年11月、ヴァリニャーノ神父はついに秀吉から上京の許可をいただきました。しかし、秀吉に謁見するにあたり、「キリスト教のことはいっさい口にしない」という条件がつけられていました。とにかくこうして、ヴァリニャーノ神父率いる、ジュリアン達遣欧少年使節の4人とメスキータ神父を含めた総勢29名が、「インド副王の外交使節」として、秀吉謁見のため京都に向かいました。
途中の室津(兵庫県)で、関白に年賀のあいさつのため上京途中にある西国の大名たちと出会いました。「ヨーロッパから帰ってきた遣欧使節の青年たちがいる」という話しを聞きつけた多くの大名たちと話すチャンスが与えられ、ジュリアン達は、世界地図や時計、洋楽器等を見せながらヨーロッパでの体験談を話し、自分たちの信じている神様の素晴らしさを証しすることができました。
関白・秀吉との謁見は、次の年の1591年3月3日、「木造建築としては、これ以上を望めない」と言われた程に贅を尽くした壮大・華麗な秀吉の邸宅、 聚楽第(じゅらくてい)にて行われました。
大広間の一番高い座敷の中央に、秀吉はただ一人座り、一段低くなっている座敷の両脇には重臣たちが座っていました。ヴァリニャーノ神父は、関白の前に進み出て、日本風のあいさつをし、また、インド副王から託された書状をさし出しました。その中で、秀吉の業績をたたえる一方、日本に滞在している宣教師たちに「慈愛をおかけくださるように」との願いも書かれていました。ヴァリニャーノ神父他一同は、祈る思いでこの書状を秀吉に渡しました。
その後、アラビア馬をはじめ、鉄砲や剣など多くの贈り物を手渡しました。ジュリアン達も、ヨーロッパから持ちかえった西洋の楽器の演奏をし、ヨーロッパの歌を披露しました。
秀吉は非常に喜び、ヴァリニャーノ神父とも杯を交わし、「最大の好意と栄誉」を示されました。3年前に、伴天連(宣教師)は全員日本から出ていくよう命じた秀吉ですが、今回のことを通し、宣教師を「十名ばかりなら長崎に残してもいい」とさえ言うほどに、心を和らげてきました。ジュリアンは、切なる祈りに答えてくださる主をほめたたえずにはいられませんでした。
(文責)サムエル鳥谷部