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中浦ジュリアンの足跡

(第2回)



甚吾が生まれ育った肥前国中浦は、長崎県西彼杵(そのぎ)半島の北西にある村です(今の長崎県西海町)。少し歩くと東シナ海が広がり、光と海に囲まれた美しい村です。近くにある横瀬浦という港は、当時、平戸、長崎とともにポルトガルの貿易基地の1つでした。

 日本の中世史を知る上で欠かすことのできない貴重な資料となった「日本史」を書き残したイエズス会宣教師、ルイス・フロイスも、この横瀬浦に上陸し、日本での宣教を開始しました。

西彼杵半島の領主であった大村純忠は、最初ポルトガルとの貿易を有利に運ぶ手段として、キリスト教の神父であるトーレス(ザビエルに次いで二番目の日本布教長)に歩み寄り、この横瀬浦を教会領として寄進しました。それにより横瀬浦は、肥前におけるキリスト教布教の中心地となりました。そして、大村純忠自身もイエス・キリストを信じ、ついに1563年、家臣20名とともに洗礼を受けました。甚吾が生まれる4年前の出来事でした。

甚吾の父、小佐々甚五郎は、このキリシタン大名、大村純忠につき従い、宿敵龍造寺氏との戦いの中で死にました。こうして甚吾は、幼くして父を失い、母と2人の姉妹とともにこの地で生活していました。

その頃、イルマン(伝道師の意)・ロレンソが、この西海の地に来て福音宣教を開始しました。彼は盲人で、かつては琵琶法師でした。フランシスコ・ザビエルに出会って救われ、日本人として初のイエズス会の伝道師となり、主に京都で活躍していました。「偉大な伝道師」とフロイスの「日本史」に記されたイルマン・ロレンソを通し、数多くの者がイエス・キリストに出会いました。その中には、結城山城守と清原枝賢(細川ガラシャに福音を伝えた清原マリヤの父)、高山飛騨守とその息子の高山右近をはじめ三箇伯耆守、池田丹後守、三木半太夫(パウロ三木の父)等がいました。

 幼い甚吾は、このキリストの琵琶法師ロレンソを通し、初めて、自分の罪のために十字架に架かってくださったイエス・キリストという神様の話しを聞きました。


(文責)サムエル鳥谷部



参考文献

 「天正少年使節〜ローマへ行った少年たち」 結城了悟責任監修、鈴木正節シナリオ
 「西海の聖者〜小説・中浦ジュリアン」 濱口賢治著
 「天正少年使節」 松田毅一著
 「キリシタン地図を歩く(殉教者の横顔)」 日本188殉教者列福調査歴史委員会編