中浦ジュリアンの足跡
(第20回)
24歳で天草の修練院に入学したジュリアンは、その後も遣欧少年使節だったマンショ達3人とともにと学びを続けていました。その修練院に併設された印刷所では、ローマからジュリアン達が持ちかえった印刷機を用い、学校のテキストや、キリスト教布教のための書物など、「キリシタン版」と呼ばれるものが多く出版され、多くの人々に福音が伝えられるはずでした。
しかし、そのような中、入学の翌年の1592年、秀吉により長崎の教会が壊されました。
93年、26歳のジュリアンは他の3人とともに修練院での勉強を終え、さらに天草のコレジヨに進学し、神父になるための専門的な勉強をしました。
しかし、97年に、秀吉はついに、長崎の西坂の丘にて、イエズス会の説教者で、天草のコレジヨでは同じ時期に学んでいた先輩であるパウロ・三木やフランシスコ会の神父、ペドロ・バプチスタを初め26名が、見せしめのため十字架にかけられ処刑されました。時代はいよいよクリスチャンにとって厳しい時代となりつつありました。
しかし、ジュリアンの心は、この26人のクリスチャンの死に至るまで忠実だった信仰に、いよいよ心燃やされ、どのような困難な時代が来ようとも、イエス様のために命をかけて、伝道していこうと堅く心に誓ったのでした。
(文責)サムエル鳥谷部