中浦ジュリアンの足跡
(最終回)
1598年、秀吉が死にました。1600年、関ヶ原の戦いにおいて勝利を治めた徳川家康が今度は日本の政治の実権を握ることになりました。
1601年、このような戦乱の時代の中にあって、再び来日したヴァリニャーノは、将来の日本の教会を背負う人材育成をすべく、伊東マンショとともにジュリアンをさらなる神学の学びのためマカオへ留学に送りました。1604年、ジュリアンたちは3年間の留学生活を終え帰国しました。その時、一つの悲しい知らせを聞きました。天正遣欧少年使節で一緒にローマへ行った千々石ミゲルがなんとキリスト教を棄て仏教徒に改宗していたのです。病弱だった彼がマカオへの留学に選ばれなかったのが理由の一つのようです。神を見ず人を見た人間の罪です。
その後、ジュリアンは、博多や有馬や京都へ行き多くの人々に福音を伝え、救われる魂が多く起こされました。その頃、原マルチノは長崎で説教をし、伊東マンショは有馬セミナリオの教師として学校で教えていました。
秀吉が死んだ後、家康がポルトガル・スペインとの貿易をのぞんで、キリスト教を黙認していたこの頃、日本のクリスチャン人口はなんと40万以上にもなっていたと言われます。
1609年、ついにジュリアンは、伊東マンショ、原マルチノとともに司祭になりました。イエズス会に入会して17年、ジュリアン、41歳の時でした。それから彼は博多を中心に伝道することになりました。
しかしついに1612年、徳川家康も禁教令発布。京都の教会が壊され、京都から宣教師が追い出され、1614年には、宣教師や信者148名が国外追放され、マカオとマニラに追放されました。その中には、高山右近や内藤如安も含まれていました。この時、マルチノは管区長の秘書としてマカオへ。ジュリアンは日本に潜伏して、ひそかに伝道を続けました。この頃、使節以来行動を供にし、良き理解者であり、最愛の兄であった、メスキータ神父が召天されました。
その後、スパイの目を逃れつつ、口之津を本拠地として九州各地をまわり、迫害下にある多くのクリスチャンを助け導きました。また同時に、まだ福音を聞かされていない人達に福音を届けました。何度も危険な目に遭い、その度にいろんな人たちに助けられました。
このような中、各地にいる神父たちも次々捕らえられ、ジュリアンの任地は、島原半島の南端だけでなく、遠く北九州の小倉まで任せられるようになりました。ジュリアンは力の限りどこにでも赴き、神の言葉を宣べ伝え、教会を励まし続けました。
しかし、1632年、ついに小倉で捕らえられ、長崎の牢屋へ送られ、1633年10月長崎・西坂の丘にて処刑されました。汚物が入った土穴の上に逆さに吊るされ殺される、最も残酷な刑の一つである穴吊りの刑により殺されたのです。その時、日本イエズス会最高の地位にあったフェレイラ神父も同じように逆さ吊りにあいましたが、苦しみのあまり穴吊りにされたその日に棄教してしまいました。ジュリアンはそのような中にあっても吊るされてから4日間苦しみに耐え忍び、ついに10月21日、ジュリアンは全ての召しを全うし殉教の死を遂げました。
西坂の刑場に来たジュリアンは「わたしはローマへ行った中浦ジュリアンです。」とみずから名のった、と言われています。西坂の丘から眼下に広がる海の向こうにあるローマ。自分がこの目で確かに見た、キリスト教国における神の威光がやがてこの国にも必ずや現わされる時が来る、そう確信してジュリアンは天に凱旋していきました。65歳でした。
“これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。”ヘブル11:13
(文責)サムエル鳥谷部