中浦ジュリアンの足跡

(第4回)



 その頃、フランシスコ・カブラルが、フランシスコ・ザビエル、コスメ・デ・トーレスに続き、イエズス会の第3代日本布教長でした。カブラルは、日本における布教の最高責任者でありながら日本文化を理解し尊重しながら宣教を進めるイエズス会本来の方針とは異なり、日本の文化や言葉を充分理解しようとはせず、ヨーロッパ人主導の宣教を押し進めていったため多くの問題が生じていました。

 このような中、1579年、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが日本に上陸しました。彼は、イエズス会総長から派遣され、日本における布教の様子を視察し、指導するために来たのでした。

 ヴァリニャーノは、現在の日本での宣教のあり方に問題を感じ、数々の改革をなしました。

 まず、財源を確保するためにマカオとの貿易を行い、日本の教区も三つの区に分けました。日本の言葉や文化、歴史の研究を推し進め、また、日本人自身が布教していくことができるようにセミナリオ、修練院※、コレジヨ※という教育機関の設立を始めました。日本人の少年に聖書の教育を施すために設立されたセミナリオという神学校は、有馬(今の長崎県有馬町)と安土(今の滋賀県安土町)に作られました。また、織田信長に謁見して、キリスト教の保護を確かなものとしました。
        修練院: イエズス会員になるための修練をする。
        コレジヨ: 神父になる人が、専門的な勉強をする。

 有馬のセミナリオは1580年、つまりジュリアンが大村に移ってから2年後に開校しました。ヴァリニャーノは大村純忠の領内からも生徒を募りました。殿は、原マルチノとジュリアンを選び、有馬で学ぶよう命じました。他に20名の子供たちが集められ、全部で22名が1期生としてここで学ぶことになりました。その中には、伊藤マンショ、千々石ミゲルもいました。

 セミナリオでの勉強は次のようなものでした。

 朝、4時30分に起床し、それから毎日の礼拝と祈祷会、ラテン語、日本語、唱歌と楽器の練習等、夜8時の就寝までひたすら勉強しました。

こうして13歳のジュリアンは、セミナリオにて神学とともに、信仰の訓練の時を得たのでした。


(文責)サムエル鳥谷部



参考文献

 「天正少年使節〜ローマへ行った少年たち」 結城了悟責任監修、鈴木正節シナリオ
 「西海の聖者〜小説・中浦ジュリアン」 濱口賢治著
 「天正少年使節」 松田毅一著
 「キリシタン地図を歩く(殉教者の横顔)」 日本188殉教者列福調査歴史委員会編


(アレッサンドロ・ヴァリニャーノ)
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