中浦ジュリアンの足跡
(第5回)
生まれて初めて聞く外国の言葉。日本語が不慣れな教師を通し、早朝から夜中まで続く授業。何が何だか分からない状態から、セミナリオの生徒達は、少しずつながら、難解なラテン語を理解していきました。ジュリアンも最初ラテン語を理解することに非常な困難を覚えました。しかし友人の原マルチノは人一倍語学に秀でており、このマルチノにも助けられ、彼はさらに聖書からイエス・キリストについて確かな知識を得ていきました。
そのような中、1582年、ヴァリニャーノは日本における任務を終え、日本を離れる直前、1つの考えを思いつきました。それは、日本人のクリスチャン少年たちを使節としてヨーロッパにつれていき、時のローマ法皇やスペイン国王、イエズス会の総長に謁見させることでした。そうすることにより、日本における宣教の成果を実際に見てもらい、さらに多くの経済援助を得ようと考えたのでした。また一方、ヨーロッパにおけるキリスト教世界を少年たちに見せ、彼らを通してさらに日本宣教を押し進めようとも考えました。また、日本での宣教の働きのため、また神学教材を充実させるためにヨーロッパの印刷機を持ち込むことも考えていました。
彼はこの有馬のセミナリオで学んでいる学生の幾人かを送ることを考え、早速、大村純忠、有馬晴信、大友宗麟の3人のキリシタン大名に話を切り出しました。こうして、伊東マンショ(大友宗麟の名代として)、千々石(ちぢわ)ミゲル(有馬晴信と大村純忠の共通名代)、また副使として原マルチノ、中浦ジュリアンが選ばれ、天正少年遣欧使節団としてローマに派遣されることが決まったのでした。
(文責)サムエル鳥谷部