中浦ジュリアンの足跡
(第6回)
こうして、中浦ジュリアンは、母と二人の姉妹が見送る中、使節団のリーダーである、アレッサンドロ・ヴァリニャーノと引率者のディオゴ・メスキータに率いられ、伊藤マンショ、千々石ミゲル、原マルチノとともに、長崎港を出発しました。1582年2月20日、彼はわずかに14歳でした。必ずヨーロッパにたどりつく何の保証もなく、途中で難破することも多かったこの時代に、まさに命がけの旅でした。また、航海には風が必要なため、途中何ヶ月もの間、足止めを食らうこともありました。
それでも、彼の信頼し尊敬するヴァリニャーノに付き従い、愛するイエス様から与えられた使命を全うすることができることは、彼にとってなによりの喜びでした。主の導きによりともに学び、志を同じくしてきた兄弟たちとともに日々祈り、賛美し、まだ見ぬ遥かヨーロッパを夢見ながらこの長い船旅を続けました。この期間も、彼にとって信仰と忍耐を学ぶ重要な時となりました。
この使節には、この4人の少年の他に、持ちかえる予定の印刷機の職人として訓練を受けるために2人のクリスチャン少年と、もう1人、ジュリアン達4人の教育係として19歳のクリスチャンの若者が同行していました。
一行は、マカオからマラッカ、そしてインドのゴアへと旅を続けました。悲しいことに、ジュリアン達が慕っていたヴァリニャーノは、インド管区長に任命され彼らとともにローマへは行けなくなりました。後任として、ヌーノ・ロドゥリーゲスが立てられました。長崎を出発してから、また再び日本の地に戻ってくるまで、常に彼らとともにいて彼らを励まし導いたのはメスキータ神父でした。
彼らはさらに、アフリカ南端の喜望峰を通り、1584年8月10日、2年半の月日をかけて、ついにリスボン(当時スペイン領ポルトガル)に入港しました。
彼らが、再び日本の地に帰ってくるのは、8年5ヶ月後のことでした。この間に日本の状況が様変わりしていることを彼らはこの時知る由もありませんでした。
(文責)サムエル鳥谷部