中浦ジュリアンの足跡

(第7回)



 インドで一行と別れを告げなければならなかったヴァリニャーノは、この使節の派遣目的と注意事項をまとめて、これから彼の代理としてジュリアンたちを引率するメスキータに手渡しました。

 その中にはこんな注意もあります。

 ○少年たちには、高い所にある部屋とか、ベランダをあてがわないように。ちいさな彼らは降りる時にけがをする危険があるから。

 わが子のようにジュリアンたちを愛した彼の細かい心遣いと、彼らの両親に必ず彼らを日本につれ帰る約束をした彼の責任から、その注意事項は56項目にも及びました。

 こうして、ヨーロッパへ渡った最初の日本人として、ジュリアンたちはその歴史的な1歩を、リスボンの地に記したのでした。今から420年前、ジュリアンはすでに17歳になっていました。当時のヨーロッパ人にとっても、地の果てからやってきた、日本人を初めて目にする機会となりました。


  「まず港に入っておどろいたのは、港に浮いている船の多いことです。その数は無数といってよく、わたしたちはそのなかから大きな船ばかり数えましたが、それは300隻以上もありました。しかし、あの広大な都の光景は、どう説明したらいいでしょう。壮大な家、高層な建築物、城壁、たくみな塔桜などに目を一時に取られて、なにからめでていいかわからないほどです。」

 ジュリアンの友人、千々石ミゲルはこのような感想を残しています。ポルトガルの首都リスボン。貿易と航海と全世界への宣教活動の中心地であり、ヨーロッパの玄関口である街リスボン。ジュリアンたちにとって、目に映る全てのものが、ただただ驚きと感動でした。

 この1歩が、ヨーロッパに日本をセンセーショナルに紹介する出来事となりました。1585年からの10年の間に彼らに関わる90種類の書物がヨーロッパで出版されたといいます。ジュリアンたちがこれから見聞きすることを考えると、それは『文明開化』をもたらした岩倉使節団と同じくらい大きな影響を日本にもたらしてもおかしくなかったはずです。もしかしたら1600年に既に『文明開化』が起こっていてもおかしくなかったし、日本においてイエス・キリストを信じる者がもっと多く起こされていたかもしれなかったのです。しかし、実際は全くそうではありませんでした。そう考えると残念でしかたありません。

 とにかく、これからジュリアンたちは、ヴァリニャーノの心配をよそに、このポルトガルから始まり、スペイン、イタリアと、人々の「大歓迎」の渦の中に入っていくのでした。

 本能寺の変により、キリスト教を擁護していた織田信長は死に、既に2年が過ぎていました。


(文責)サムエル鳥谷部



参考文献

 「天正少年使節〜ローマへ行った少年たち」 結城了悟責任監修、鈴木正節シナリオ
 「西海の聖者〜小説・中浦ジュリアン」 濱口賢治著
 「天正少年使節」 松田毅一著
 「キリシタン地図を歩く(殉教者の横顔)」 日本188殉教者列福調査歴史委員会編
 「ローマへいった少年使節」 谷真介著


(リスボン)
戻る