〜 昼 食 〜

5月から近くにある印刷大手の大日本印刷で働いています。
先日、財布を持っていくのを忘れてしまいました。
さあ昼休み!というその時、そのことを思い出し自転車で家に帰りました。
いつもだったら会社の社員食堂で昼食を取るのですが、お金がないのでしょうがありません。

「リディヤさんはいるだろうか?」
「いずれにしても12:00に帰ったところで食べるものなんかまだ用意してないだろうな・・・」「コンビニで○○を買って・・・」などと帰り道に考えながら家に着きました。
(こんな時間に驚くだろうな)と思いながら、ドアを開け2階に上がると、えらく平然としてリディヤさんが「財布忘れたんでしょ?」と言い、何と、すでに昼食が用意してあったのです!
それも僕の大好きな彼女の創作料理「エリンギ丼」!

僕は驚きました。僕が彼女の立場だったら、財布が忘れてあることにさえ気付きもしないでしょう。
当然、(今日は昼食を食べに戻ってくるかもしれないから料理をしておこう・・・)、とか(ご飯をたいとこう)という発想は無いでしょう。もし、気付いても、(時間も無いし、忙しい、あいつが悪いんだから、近くのコンビニで何か買って食べてもらおう・・・)と思うのが関の山です。

とても感動しました。その時、「あっ、彼女には『心』がそこにあるんだな〜」と思いました。
つまり、彼女は僕のことを気にかけてくれ、どうしているか思ってくれ、今僕に何が必要なのか時間を割いて考えてくれ、思い巡らしてくれ、それを実際に行動に移して時間を使ってくれるのです。

「行ってらっしゃい!」と言って、ドアを閉めたら、夫が帰ってくる8時頃まではもう自分の時間です。何をしても良いわけです。
もし、『心』が無くて、自分のことだけ考えていたら、昼帰ってくるか、あるいは誰かにお金を借りて社員食堂で食べるかもしれない夫のためにわざわざ時間を割いて、しかも大好物の料理を作ろうなんて露ほども思わないでしょう。

彼女はいつもそうで、ある方のことを思い祈り、「今日はあの方は○○されておられるから、あの方にああさせていただいたらどうだろう、こうさせていただいたらどうだろう」、といつも驚くほど神様から沢山のアイディアをいただいて、それを実際に行動に移します。つまり、彼女にはその人に対する『愛』があるのです。

口先だけでなく、本当にその人のことを気にかけていれば、そこに心があれば、神様がいくらでもアイディアを与えてくれ、その人に今何をしたらいいか教えてくれ、またそれを行うための全ての必要も満たしてくださる。そこに神様の愛が、麗しい愛の行為となって生きて流れるようになるんだな、と彼女を見て思わされます。
僕の言葉や行為や仕事が、例え愛の故に行われたと言ったところで、義務的、事務的、皮相的で、アイディアの枯渇したもので終わってしまうならば、結局その行為の向こうにいる方に対して『心』が無いんだな、と思わされます。


妻を通して教えられます。


(サムエル)

Samuel & Lydia
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