細川藩の殉教者たちの足跡
                    (第10回)


 小笠原玄也と加賀山みや@


 小笠原玄也は、小笠原少斎(しょうさい)の三男でした。少斎はもともと細川忠興の父藤孝(ふじたか)に仕え、藤孝が隠居し息子忠興に家督が移った後も、細川家に仕えた、古くからの最も信頼のおける家老の1人でした。関ヶ原の戦い直前、大阪玉造の細川邸にいたガラシャ夫人を最後まで守り、石田三成側の人質として捕らえられようとしていた時、夫人の介錯をなし、自分も細川邸に火をつけ切腹して死にました。忠興は、この少斎に報いる気持ちから小笠原家にも手厚く報い、少斎の長男の長基(ながとも)には6千石を与え、次男の長良(ながら)には600石を与え、三男だった玄也を含め、三人の子にそれぞれ自分の身内の者を嫁がせ、特別な扱いをもって少斎に対する謝意を表しました。

 少斎の子供であった玄也も、当然イエス・キリストを信じ、何者にも屈することなくこの信仰を守り通したクリスチャン、細川ガラシャの生き様を通し、また実際の交流を通し、イエス・キリストのことを知ることができたと思われます。実際、少斎の息子3人のうち、長良と玄也はクリスチャンになりました。長良は、厳しいクリスチャン迫害の中で背教していきますが、玄也は、最後までイエス・キリストを信じる信仰を守り通し、ついに妻の加賀山みや、そして子供たちとともに殉教の死を遂げる程に堅い信仰を持ったクリスチャンでした。これから、この小笠原玄也と妻の加賀山みや、そしてその家族の足跡を辿っていきます。

(文責)サムエル鳥谷部




参考文献

 「日本キリシタン殉教史」 片岡弥吉著
 「キリシタン地図を歩く(殉教者の横顔)」 日本188殉教者列福調査歴史委員会編

 
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