細川藩の殉教者たちの足跡
                    (第11回)


 小笠原玄也と加賀山みやA


 小笠原玄也の妻、加賀山みやは、加賀山隼人の長女として生まれました。父隼人も、細川忠興の重臣の1人であり、忠興の棄教命令をこばみ信仰を貫き通し、ついに1619年豊前小倉にて殉教の死を遂げたクリスチャンでした。

 父が処刑された時、みやは20代前半になっており、玄也と結婚して既に子供も与えられていました。父の家にいた母のマリヤや、妹のルシヤが、その時父と同じ殉教の道を辿りたいと切望したように、長女のみやもまた、彼らと同様に、イエス・キリストを信じる信仰を命をかけて最後まで守り通したい、と主の前に願いました。

加賀山家においては、1549年にフランシスコ・ザビエルが日本における宣教を開始して以来、過酷な時代であったにも関わらず、加賀山隼人の両親がまず信仰を持ち、次いでその子加賀山隼人に受け継がれ、そして隼人の娘みやに、また、さらにみやの子供たちへ、と四代に渡り生きた信仰が脈々と流れていきました。父隼人の、死に至るまで忠実な信仰は、その生き様を通し、確かに娘みや、とその子供たちにも多大な影響を与えたのでした。

 一方、みやの夫玄也も、義父加賀山隼人、そして妻みやを通し、その熱い信仰のスピリットに触れ、彼の信仰が燃やされ、彼がこれからの信仰の選択をなしていく上で、非常に大きな影響を受けていました。

“わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。”イザヤ44:3

(文責)サムエル鳥谷部




参考文献

 「日本キリシタン殉教史」 片岡弥吉著
 「キリシタン地図を歩く(殉教者の横顔)」 日本188殉教者列福調査歴史委員会編

 「細川ガラシャのすべて」 上総英郎編
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